昭和三十九年十二月五日 夜の御理解


現教主金光様がお正月、今年の年頭に当たって「何事にも実意をもって大切にさして頂 きましょう」なんかそういう意味の言葉、ちょっと違っているけれども、ああいう意味のお言葉下さっておるおですが。
何事も実意を持って大切にして行こうと、これは本当に広い素晴らしい範囲の広いお言 葉であると、こう思う。お道の信心をさせて頂くものは、ここんところを焦点を置かして頂いて、何事にもこのことだけは実意を持ってするけれど、このことは疎かにするというような事でなくて何事にもそれを実意に、それを大切にしてゆくという事がお道の信心であり、そういう所に焦点を置いて日常生活させて頂く事がそのまま神様の気感に叶う事であり、おかげを受けてゆく事であると私は思うです。
ところが、なかなか問題が問題であります場合は、せからし、そんなもんばほったらか しとけといったような事があるんですよね。ほったらかしとけといったら実意じゃない、大切にしているわけじゃないですね。これは、お互いの信心の程度もありますけど、例えていったら、同色素とでもいうですか、片一方は真っ赤、片一方は桃色程度、これは違いますけど桃色程度の方が本当に私を捨てていったら真っ赤になるのですから合うのですけれども、赤と白のような場合があるです。どんなに努めても努めても、これが赤が白になるわけでもない。白が赤になるわけでもない、と言ったような事があります。
今日は善導寺の総代会が、その渕上先生のお宅でありました。私は、丁度入信丸二十年 になるそうです。五年祭の時、私おかげ頂いたんです。十五年ぶりでおかげ頂いたんです。本当に私と善導寺は、どうしてこんなに違うだろうかと思うですね。これは本当に赤と白程に違いますね。
ですから、これはもう総代会の場合でも話が全然合わないんです、根本的に違うんです ね。それでまあ大概の事なら八方美人的に、「はあ、そうですな」「それもいいですな」と言って合わせても行こうけれども、それだけでは自分の心が許さないですね。自分をいつも殺して置くという事は、どうも私、どうにも嫌でたまらん気がするんですね。してみると、行っても行かんでも、私が総代であってもなくても私は良いと言う事になる。たとえばね、今日は一事が万事皆さんの、やっぱり私は何とん申しませんけど、話を聞いておってですたいもう根本的に違うと思う事がいくらもあったんですね。
その例を言うと、草野の十人余りの御信者さんがおられます。それが、その毎月十日の 日をお祭り日にしてですね、各御信者さん達が廻りでお宅祭を仕えられるわけです。そして、そこで信心の共励もなさるわけなんですね。
ところが、最近ですね、宅祭りばせにゃならんごとあるなら、あたいばー加たらんち言 う人が出来て来た。しかも草野の中心と言われるような人達です。上野さん達、本家と分家の方なんです。最近、全然善導寺にもお参りがないらしいです。ですから、もう二十年も続いて来た共励会じゃない、宅祭りに合わせて共励会をですね今月ぎりでやめると言う事です。そして、来月からは共励会だけにしようと、渕上先生と誰とかさんが行かれたそうです。そして、そんならお祭りばせんで、ただお茶だけで共励会をするなら来て下さい。そんなら行ったっちゃよかばってんから、宅祭りの場合、私はお付き合いしきらんけん、もう絶対信心を止めるち言いなさるそうですたい。と、いって実際参ってもらえないわけです。その本家も分家も。
そこで、みんなの話し合いが色々あったんですけども、結局、そんなら宅祭りを止めて です共励会だけにして行こうとこういうわけです。私の場合なら、これはもう兎に角中心に対する魅力を欠いているのです。ここで、例えばもし御信者さんの中にそういう人があるならばですね、私は追いません。そりゃ勿論、【                】そのために信心を、私は停止させるような事は出来ません。
もうところが皆さん、皆んなそげんしようち、それが本当だと、それが信心だと、もう その落後していきよるのも自分達も皆んなそこまで下がってからそのして行こう、恐らくみよってみなさい何か月か。言うた手前に出来よんなさるかもしれんけども、そげんなっても、もうあの人達は信心する気はないです。ご兄弟とも。一事が万事そんなわけなんですね。ですから、もうその共鳴する所がございませんから、このなんかしらんけどなあにもならんという気がいたしますね。
皆んながそうです、親先生を初め、皆んなが。それが信心だと、こういわれるのですか らもうお話になりません。私に言うならば、もう天と地ほどの開きです。
赤と白ほどの開きです。だから、私がもちっと信心に熱情をかけたら私にはそげなもん はないかも知れんと言う事もでけないです。と、言って私一人が赤面弁慶でそれは間違いですよと言うても、皆が誰も付いちゃ来ません。だから、そげなもんはせからしか、そげな問題に加わらんぞと言うたら、信心じゃない言う事で私は今日は何時間か思い続けさせて頂いたんですね。
こりゃどういうような事になって、この事を大事にするという事はどういう事だろうか と思うんです。その事を思わせて頂くんです。もう、全然ヒントが与えられないですね。私の信心では分からないです。これは、赤は赤、白は白。私がここで、いうならばもういわば紅白合戦のような事になる以外にないです。
これはといって、私がですそれに八方美人的にそりゃ本当、本当ですねと口では言いな がら、心の中では違っていると思っておる事が、私としては術ないと言う気がするんですね。それでも、それを大事にして行くという事が実意であり信心であるという事になるんですね。
これは、こういう問題はいつもあるんです。そういう思いでご神前に座らして頂きまし たら、頂きました事が『博愛』の博ですね。広い博はと頂きました。広い輪という事なんです。はあー、そういう事になればこれは八方形の上では八方美人であってもです、いわば信心になれるなという事でした。ですから、そういう場合、私、総代会の総代会に列席させて頂いてから、そのまあお話を聞いとってから「そうですな、そうですな」と相槌を打つとてもいいという事です。
次に頂きます事が、『昼行燈』という事を頂きました。そげなもんしとるけんで、なあ にもそのいう事もなからにゃポヤーとしときゃよかとき、そしていよいよ暗くなった時には役に立たしてもらう所のおかげを頂けばいいという事になってくるんです。それがいわば信心だという事になるでっしょ、皆さん。
もう私の意見とは全然反対だから、私はそういう会にはごめん蒙るというたら、これも 信心ではないし、というて八方美人的にですね、「そうですな、そうですな」と面めだけ合わせとけば信心であるという事じゃない。
博愛の博を持ってです、輪を持ってこちらが行けば、例えばそれが形の上に置いては八 方美人的であってもそれがそのまま信心であるという事。そして祈っていく。そして、私はこう思うけど、私はそれをその信心をさせて頂いて、私自身が本当に自分的おかげを頂いて参りましたです。
皆が、兎に角私をこう目当てにするようになり、どういう信心からあれが生れて来るじ ゃろうかというようになった時、初めてこれが本当だ、あれが本当だと私が発言させて頂いて、それに付いて来る事になってくるのじゃないだろうかと、私は思うのです。
ですから、その間は結局馬鹿と阿呆になっときゃよかだけではなくて、馬鹿と阿呆にな って実力だけはいつでもお役に立たれる実力を作らせて頂く精進をしてゆかなければならないという事です。これだったら、なるほどどのような事でも実意を持って信心になる。実意を持って何事も大切にして行く事は、そういう事だと私は今晩思わせて頂きました。ですから、お互いが実意丁寧をもって、実意を持ってです物事大事にしておりますけど 、只今のような場合になったら、椛目でもそんな場合があるんじゃないかと思います。
青年会なんかの場合です。中に、私が今感じておったような事を、だれだれが中心でや っていきよるのだから、自分達の信心の派が違う。自分達の信心はそげなもんじゃなかというものが。だから、青年分会に席を置きながら、そこに覗こうとしない人達あるという事は、いよいよもって実意を欠いているのであり、大切にしていないという事が分かるですね。といって、赤面弁慶になって、なら討論していくという事もないのです。
いわばその博輪をもって、そして昼行燈をしてのおかげ。【あるきとって】なあにもは じけもせん、ただ座っとるだけというようであっても中身だけは段々育っていきよるという信心をさせてもらって。いよいよさあ行き詰まった、暗くなったという時に何か行き詰まりのつく道を開いてやれるだけの力。暗い時に行燈の御用の頂けれる私にならせていただくという事がです、いよいよその会、そのものもおかげ頂いて行く事でしょうけども、その人自身がおかげ頂く事であり、何事も信心になれよとおっしゃる、何事にも信心になることだと思う。
私は思うんですね。なかなかなりにくい、それはほっといたほうが余程よい煩わしいよ うな事もございますけれども、それを煩わしいというたら実意を欠く事になるのです。
おかげ頂きました。